一杯の茶のためには、世界など滅んでもいい(ドストエフスキー)

「煙り吐いてねじれたカーネーション 本当は変わらない愛情で開いてる」ってなんだ?!「こう愛した フェルトの花びらで もう逢えないよ 君が来ない海でただ待ってる」なんて花があるか?!。
カーネーションって、そんな人だったっけ?カーネーションって、一年に一度、母の日に活躍するんじゃなかったけ?カーネーションって、友達が盲腸になった時に自販で買ってお見舞いに持っていくんじゃなかったけ?
二日前に、清春さんの「カーネーション」という新曲のPVに出演した。PVは初めての経験だ。清春さんが新しく創ったカーネーションな女の役だった。確かにカーネーションはすぐにねじれて縮れる。だけど、長持ちするような花だという印象が強い。ことさら唄われるような花でもない。それを唄う、海で唄う。冬の海でコートの襟を立てて唄う。スピード写真に収める。そのために700円払う。そうやってアーティストは先に進む。手品師のように空中から、海の中から、スピード写真のボックスから、手につかめる物は何でもつかみ取り、ベッドの上に叩き散らす。
私どうやればいいの?もなく、イメージの世界に響くエコーを感じていた。これがPVってもんなのかな?

その時、竹中直人さんの目は怒り以外のものでギラギラ光っていました。ミルヒーというドイツ人の役をやっているので、紙粘土に肌色を塗ったような高い鼻が顔の真ん中に強引に張っ付いている。髪はモーツアルトのようなプラチナブロンドのセミロングのかつら、それがユサユサ揺れる。それだけで十分異様な筈なのに、そんなものは屁でもなく(失礼)竹中直人自身の目の中の、表現する喜びの炎が勢いあまって余りに熱く、私は思わずたじろいだ。もちろん、いい感じで。
それは数日前の事で、テレビの連ドラの仕事で私はドイツ人で有名な指揮者、ミルヒー・シュトレーゼマンのマドンナという役どころでした。こんな事を言ってるとなんか凄くアカデミックなドラマみたいだけど、ミリオンセラーの漫画「のだめカンタービレ」が原作の楽しい楽しいコメディーなんだよね。それでも炎が燃えている。なぜだか突然燃えている。私は落ち着き払ってなんでも出来るプロみたいな顔をしているけど、本当はあっちこっちで燃えている炎の間を熱いとも思わず走り回っているだけ。台本があってよかった。ちゃんと仕事してるように見えるからね。
一杯の茶をコンビニから買ってきて、世界を燃やす炎でお茶を沸かす。
これがあるからやめられない。
そんな人たちといつまでも付き合っていたい。
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