黒い猫でも、白い猫でも、鼠を取るのが良い猫だ(鄧小平)

人生が無い、稽古場しか無い、台本しか無い、演出家星田氏の叱咤叱咤、ちょっと激励、しか無い。ほぼ二時間のオムニバス、春夏秋冬、極々個人的なちょっとした恋愛の小品集、のつもりが、あんたトンデモナァイ。プロローグは、”ぐるぐる回る回転木馬♪”と唄いながら、なんと、十六世紀やら十七世紀やらのフィリッペ王家の王女様みたいなドレス着て踊り回るのは、自分でした。それからお芝居が始まるんだけど、その歩くこと歩くこと。原宿から駒沢は上馬までは着いちゃうくらい歩く。その怒鳴ること、もう誰の事も怒鳴りたくないくらい毎回怒鳴る。その笑うこと、もうテレビ見ても笑いたくないよ。一行一句といえども気が抜けない。エネルギー発散しまくりのターボドライヤー。星田氏が求めるものはしみじみとしたメロドラマ、ではなく、運命のいたずらが巻き起こす、虚栄や利己主義と恋愛のダイナミックな相関図でありました。いやー疲れる疲れる。稽古部屋を出るとちょうど休憩で、隣の稽古部屋から出てきた何故かフィリピン人のアクターやアクトレス達とロビーで出会う。稽古を始めたのが同じ頃なのでバイブレーションも同じになるのか、こちらが機嫌が良い時はあちらも機嫌が良く、こちらが機嫌が悪いときはあちらも悪く、こちらが病んでいるときはあちらも病んでいる、こちらがブルーの時はあちらは灰色、こちらが灰色の時はあちらは真っ暗。とにかくお互いに稽古は佳境、ジグソーパズルのように台詞の破片が一日中あちらこちらに浮かび、別にただリハーサルに行くだけなのに夜眠れない。自分が繊細であることがお恥ずかしい。
まず人生では、その時、自分は黒い猫なのか、白い猫なのかを決めて、どの鼠を取りにいくのか決める。白い猫が、黒い猫の狙っている鼠をとれなくたって、それは主義が違ったというものでしょう、別に悔しくもないし。私は努力の効果を期待するタイプでは無い。努力をする人を認めはするが、礼賛はしない。自分が努力していてもそれを誇りにはしない。結果主義ではないけれど、結果があるならばプロセスがあるのも当然と思っている。ではなぜ、今になってお高い才能貴族主義ではなく、謙虚な努力労働主義にとっぷり漬かれるかといえば、それはある凄みを、今この時間に感じているからだ。白い猫でも黒い猫でも鼠を取るのが良い猫だ、という、自分の中では五次元といってもいい、知らない人生の醍醐味に晒され、この骨が折れそうな痛みの後に革命があるような気がするからだ。人生は悲しみに満ちている、と呟く時の声の甘さを、高笑いでかき消すアイロニーに、この芝居は満ちている。学校を出て、さぁ自由になったと社会に飛び込んでいくときの好奇心を久々に感じている。好奇心?何に対しての?それは私が知っても良いモノなのだろうか・・・。どんな鼠だろう、、、。


2007年01月25日

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