幸せは去ったあとに光を放つ(イギリスの諺)

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東京公演、すべて終わりました。ル・テアトル銀座の日々、たった12日間だけど、みんなは長いようで短かったというけど、私には長いようで長かった!。考えてみれば、1日1公演、2時間半だけっていうのは(2回公演もある!)8時間労働からすると極めて短い。でもそのエネルギーの放出量は気が狂うほど大きい。やっぱり、しょっちゅうは出来ないな。コンサートを続けるミュージシャン達ってどうやって生きてるんだろう。しみじみ、私の好きだったジャニス・ジョップリンやジム・モリスンやジミ・ヘンドリックスやシド・ヴィシャス、、、、みなさん、さっさと死んじゃった訳がなんか分かった、やっと。
輝くということは幸せに違いない。花も咲かなければ散ることもあるまい。輝いて、輝いて、光を放って、それで死んじゃうのは幸せと思えば思えない事もないだろう。映像の女優で良かった。輝いては取り戻す、溜めては輝く、今まで続けたこのテンポ、合ってるかも。そして、舞台がやれてよかった。けっして低くなることは無いハードルに、毎日毎日向かっていく、アスリートのような精神力と体力の日々。けっして底に当たらない理解の深さを、自分に課していく坊さんのような日々。欲しいと言っても、与えて貰えない贅沢な苦しみの日々。

楽屋花(注:舞台の時に頂く、励ましのお花や鉢物)も咲くだけ咲いて、暖房で異常に乾燥している廊下で萎れていった。まだ頑張っている蘭の鉢植えを自宅まで車で運んだんですよ。もう重くて重くて大変だったけど。途中ぶつかってトランクの中で落っこちた20個あまりの蘭の花を、今日おフロに浮かべて入った、バリのリゾート気分で。
湯船の中で、目線が浮んでいる蘭の花々と同じになって気が付いたんだけどね、もしインドで水の中に咲いてるのが、もし蘭の花だったら、汚い泥の中から悟りを開いて美しい蓮の花に至るという仏教哲学も変わっていたに違いない。蘭の花は形状的にあまりにも具体的だ。そこに哲学を重ねあわせるのは無理で、どうみても女性器だ。悟りを開かない現世の美の象徴に見える。そしてそれを蓮の花と比較するのはまったく次元が違う。仏陀とピカソぐらい違う。”幸せは去ったあとに光を放つ”と”幸せは光そのものである”ぐらい違う。
”幸せは去ったあとに光を放つ”というのはイギリスの諺なので、イギリス人ってバカね、と言っちゃうと仏陀もバカね、と言わなきゃいけなくなっちゃう。おフロの中の気づいたことは、多分錯覚だったんだろう。


2007年02月16日

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